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【16】-1 「治したくても治さない。」私自身の経験

(1)胸やけ、精神的ストレス、頻度の増加

過食嘔吐という、不自然で非生理的な行為を続けることで、身体にさまざまな不都合が起こります。
私自身の経験をお話しましょう。
過食嘔吐による身体の症状として、まず上部消化管症状がありました。
のどや口の中がひりつくような感覚、胸やけなどです。
口やのど(咽喉頭)、食道が、胃酸によって「やけど」するために生じる症状です。
また、嘔吐してしまったという罪悪感や、抑うつ、嘔吐を続けることによる食道がんへの不安・恐怖など、心の苦しさもよく覚えています。
依存症のセオリーですが、年を経るごとに過食嘔吐症状は回数、量、時間、すべて増加していきました。(依存症の経年増加)

(2)病識が欠如していた

摂食障害では、拒食症から神経性大食症への移行など病型が変化することがままあります。
私自身も、過食性障害(むちゃ食い障害)、摂食制限型の拒食症、過食・排出型の拒食症、神経性大食症(神経性過食症)を経験しました。
全経過で、病気である自覚は非常に薄かったと思います。
特に摂食制限型の拒食症のときは、医師免許をすでに持っていたにも関わらず、全く病識がありませんでした。
体重減少に伴って月経が来なくなっても、嘔吐していないのだから摂食障害は治ったと思っていました。
治ったと思いたかったのだと思います。

やせるため、あるいは太らないために嘔吐しているときは、何かおかしいことは分かっていました。
ただ、それを病気と自覚するというよりも、「やばいなぁ・・・。なんとかしないとなぁ。」という、ぼんやりとした捉え方でした。
病院や医療機関を受診することについて考えても、自分の医師という職業のことを考えると恥ずかしさや罪悪感などで行動できませんでした。
日々の仕事のいそがしさや、飲酒によってごまかしていました。
摂食障害を抱えている医療従事者の方々の中には、同じような理由でなかなか病院の治療に踏み切れない方もいると思います。
アルコール依存症の方が、自分のことを「アル中だ。」と周囲に公言しておきながら、病院や断酒会に通おうとしない状態と似ているかもしれません。

(3)苦しいことが自分の「当たり前」

摂食障害にパーソナリティ障害が併存しやすいことはすでに述べました。(→摂食制限型の拒食症)
パーソナリティ障害では病識を持ちにくいことが知られています。
摂食障害に典型的な思考パターンの芽は、パーソナリティが形成されるような段階から育くまれているのではないでしょうか。
私は過食嘔吐を発症する数年前から、満足して食べ終わるということがありませんでした。
お腹がいっぱいで苦しいのに、満足できずに食べ続けることがありました。
「これ以上食べると太るから。」という理由で食べるのをやめることはできても、満足して食べ終わることはできませんでした。
物理的にお腹がいっぱいなのに満足できない感覚は、「過食衝動」だったのでしょう。

私にとって、食べ物を選ぶときに「食べたいもの」ではなく、「より太らないもの」を選ぶことは極自然なことでした。
食べないか、食べるのであればより太りにくいものを、という具合です。
自分が今何を食べたいと思っているか、じっくり考えたこともありませんでした。
強いて言えば、いつでも、なんでも、食べたいからです。

「やせた」と言われた時の高揚感

体重の増減で過剰に気分が左右されることについても、なんの違和感もありませんでした。
体重が増えると、それが健康上よい値であっても、自分がとても醜く思え、恥ずかしく、落ち込んだ気持ちになりました。
人から「やせたね。」と言われることが、例えば「君はクレオパトラのように美しい。」と言われたように感じるぐらい嬉しく、興奮しました。
摂食障害にありがちな考え方や感じ方は、私にとって疑問をさしはさむ余地が無いほどに身近で当たり前のものでした。